権力か、信仰か…。男は命を懸けて信念を貫いた
ストーリー:1528年、英国。ヘンリー8世は皇后キャサリンと離婚し、若く美しいアン・ブーリン(ヴァネッサ・レッドグレイヴ)と結婚しようとしていた。しかし、カトリックの英国では離婚にはローマ法王の許しがいる。王の再婚を法王に弁護できるのは国中にただ一人、信仰心篤く人望のあるトーマス・モア(ポール・スコフィールド)だけだった。王はなんとか法王に離婚の承諾をもらえるようにトーマスに頼み込むが、彼はそれを拒否。1年後、トーマスは大法官となり、王に忠実を誓うが離婚には賛成しなかった。ついに王は怒り心頭に達しローマ法王への忠誠を破り、自らの主義を捨てようとしないトーマスに死刑を宣告する・・・。
出演:ポール・スコフィールド、ウェンディ・ヒラー、レオ・マッカーン、ロバート・ショウ、オーソン・ウェルズ、スザンナ・ヨーク、ナイジェル・ダヴェンポート、ジョン・ハート、コリン・レッドグレイヴ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ
★★★★★ 高潔なる心とは
権力をふりかざす人間、権力をもとめる人間、権力に媚びる人間、トーマス・モアが生きた15世紀にもそのような人間は、腐るほどにいたのである。そのような人間のいかに悪質で醜いことか、対しモアのいかに高潔で美しいことか。はじめてこの映画を目にしたのは、9年前の「宗教学」の講義であった。それからこの映画を3度最後までとおして観たが、いまだに胸が締め付けられ、いまだに涙を流さずにはおられない。「信仰とは何か」、「宗教者とはどうあるべきか」「法とはどうあるべきか」といった問いかけに対し、モアは、命を賭して我々に「こたえ」を示してくれたのだ。人生の指針を誤りそうなとき、この映画(モアの生きざま)は、必ず自らの支えになってくれるだろう。こういう映画こそ観るに値する映画、人にすすめられる映画であると思う。
★★★★☆ 幸せについてすごく考えさせられた。
この話を見ると、人間がいかに制約的な生き物かが分かると思います。最終的に信仰に生きて自ら死を選んぶ主人公のトーマスモアの生き方は、大衆化された現代の日本人には理解しがたく頭の悪い、言ってみれば下手な生き方だと思われてしまうかもしれません。そして、したたかに地位を狙い続け、最終的には高い地位を手に入れ大往生するリッチは、結果的に成功を収めたと言えるので上手く生きてはいますが、好感は持てず何か釈然としない気持ちが湧いてくるのかもしれません。しかしながら、それらの「解釈」はたったひとつの見方に過ぎません。もしも、神への信仰に生きる人の目にはリッチは、死後救われないかわいそうな人間として映るでしょう。そして、逆にトーマスの人生は信仰に生きた聖者として映ると思います。また、別の人の目にはトーマスが、ソクラテスの様に公共の正義としての法のために死んだと映るかもしれませんし、イエスの様に他の人間の身代わりとなったと解釈することも可能だと思います。このように、人間の手によって人生は一つのストーリーに仕立て上げられます。言い換えるならば、人間は意味づけを行わずに生きてゆくことは出来ないのだと思うのです。もしも、この無制約的な世界に真実があるとするなら、それは人間にとってのものではなく、包括者にとってのものなのです。だとすれば、法という公的空間、すなわち誰にでも通用するように決められた公的な真実のために生きたトーマスは政治的に頽廃した近代や現代日本においてもアリストテレスやアーレントのように注目されるべき対象になり得るのだと思いました。最後に、いかに人間が制約的だとしてもクロムウェルの例を見れば、他者によって自己の制約を乗り越えられるのかもしれないと思ってしまいます。自己のすべてをぶつける他者との交わりによって、人間は少しだけ制約を乗り越えられる超越的な生き物なのかもしれないと、なんとなく思いました。この話はそういう人生観や生きる意味を問いかけてくれるものだと思います。
作品の詳細
作品名:わが命つきるとも |
原作名:A Man for All Seasons |
監督:フレッド・ジンネマン |
脚本:ロバート・ボルト |
公開:アメリカ 1966年12月12日、日本 1967年7月1日 |
上映時間:120分 |
制作国:アメリカ |
製作費:200万ドル |
興行収入:2800万ドル |
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