実在する新興宗教団体の起源にインスパイアされたと取沙汰される話題性抜群のストーリー!
「僕は、人間の究極の関係を描いた。マスターはフレディを救済したかった。救いたかった。彼と同時に、彼から噛まれる事のスリル感も味わいたかった。ふたりの関係は、どんな人間関係にも置き換えられる。友人、兄弟、マスターと家来、様々だ。だけど関係性は平等だ。今回もマスターが親分で、フレディが子分というだけではないんだ。人というのは、自分にとって決して良くないと分かっている人間に、どうしても惹かれてしまうことがある。この魅力こそ、マスターがフレディに抱くもの。こいつはいつ何時自分のもとを去っていくかも知れない、とんでもなく狂った事をしでかすかもしれないというスリルに満ちた興奮を感じている。人は何かマスターという存在なしに生きられるのか?もしその方法があるなら教えて欲しい。我々誰もがこの世をマスターなしで街復えるとは思えないから。」by ポール・トーマス・アンダーソン監督
ストーリー:第2次世界大戦後のアメリカ。アルコール依存の元海軍兵士のフレディ(ホアキン・フェニックス)は、「ザ・コーズ」という宗教団体の教祖ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)に出会う。やがてフレディはドッドを信頼し、ドッドもフレディに一目置くように。そんな中、ドッドの妻・ペギー(エイミー・アダムス)は暴力的なフレディを追放するよう夫に進言し・・・。
出演:ホアキン・フェニックス、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムス、ローラ・ダーン、アンビル・チルダーズ、ジェシー・プレモンス、ラミ・マレック、クリストファー・エヴァン・ウェルチ、ケヴィン・J・オコナー、マディセン・ベイティ
★★★★★ こんな友人居ない?
僕には滅多に会わない友人が居る、出会った10代の頃からそうだが、ついついろくに連絡も取らず時間ばかり経ってしまう。久しぶりに再会してもお互いに抱えてるもの、溜め込んだ胸の内には触れるのは野暮とばかりにどーでもいい話で酔っぱらって「それじゃ、またな」だ。毎日のように顔を合わせて苦楽を共にする人間にさえ、彼に抱く程の友情を感じることはない。何年ぶりに彼に連絡をとって、是非この映画を薦めたい。PTSDや新興宗教を扱っているが、これらにたいした知識は無くても(だから故なのか?)、難解というイメージは受けず充分楽しめた。主人公2人が顔を合わせた時の喜びの前ではこの映画、そして彼らの抱えるシリアスな問題は難解どころか幾度となく無力化し無意味に転がっている。予告編を見てもっとベタベタな男の友情が奇跡を起こすような感動モノかと思った(主演の2人が大好きなのでどんな映画でも観るつもりだった)が確かに男の友情の物語だ。しかし予想を裏切り、それは本物の。穏やかな感動がこみ上げる良い映画だった。映像も美しく、この時代背景が好きな人は劇中に登場するファッションや音楽もきっと楽しい。
★★★★★ アンダーソンが描きつづけるジレンマ
舞台は1950年代のアメリカ。太平洋戦争で心に傷を負った主人公が、新興宗教のカリスマ教祖と出会い、やがては自立していくまでを描いた物語。監督、脚本はポール・トーマス・アンダーソン。主人公を演じるのはホアキン・フェニックス、教祖を演じるのはフィリップ・シーモア・ホフマン。劇中の新興宗教のモデルは、著名なハリウッドスターも信仰していることで有名なサイエントロジーだといいます。アンダーソン監督のこれまでの作品よりもずっと難解に見えます。要因として挙げられるのは、俳優たちにあらかじめ大雑把なシーンの説明だけして即興の演技をさせたことでしょう。宗教的で意味深な台詞が頻出することも一因だと思われます。くわえて、主人公の心象風景を表すカット(浜辺における砂でかたどった女性像、教祖のまわりで踊る裸の女性たち)を唐突に挿入する、現実の光景と心象風景の区別がわかりづらいなど、編集の仕方が不親切なのも理由として挙げられます。そのためか一回目に観たとき、強烈な演技と映像と音楽は印象に残ったものの、物語そのものにはピンときませんでした。前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』からそれ以前の作風と一変し、難解になっていきましたが、前作では構成の破格っぷりと主人公演じるダニエル・デイ・ルイスのドロドロした迫力に内容を云々することすらできない衝撃を受けました。本作にはそれもありませんでした。けれど久しぶりに観直すと、やはりいつものアンダーソン作品だとわかりました。主人公は自分を “マスター=抑制” することもできず、教祖に象徴される “父性” すなわち社会的な規範に “マスター=順化” されえない男です。にもかかわらず、つねに人との関係に飢えている男でもある。人とのつながりを欲しながらも、つながることができない。人とのつながりに失望して傷つくのが怖いからです。それが主人公の抱えるジレンマです。社会に適応したくてもできない、人を信じたくても信じられないジレンマ。ロマンスとして、友情として、あるいは(疑似)家族として…どのようなかたちであれ、それは監督がずっと描いてきたことです。自分がアンダーソンの作品のどこにもっとも共感していたのか、本作を観てようやくわかりました。主人公と教祖は不器用に互いを求めあう男たちであり、あるときは友情で、あるときは師弟の絆で、あるときは父子間のような情愛で、あるときには同性愛を匂わす感情で結ばれる。今まで監督が描いてきたものが、本作ではほぼふたりの関係のなかに凝縮されています。前作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』において宗教の欺瞞性を呵責なく告発していたため、本作を一回目に観たときに身構えてしまっていたようです。しかし監督がもっとも描きたかったのは宗教特有の欺瞞ではなかったのだと思います。人との関係において、社会との関係において、まったく無垢なものはありえないのに、自分が信じるものに少しでも裏切られることが許せないため、どのような些細な欺瞞も我慢ならず、暴力的なまでに “純粋なもの” を渇望するがゆえの、もがきと苦しみ。監督はそれを描きたかったのでしょう。考えてみれば、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』の怪物のような主人公の猜疑心と自己愛もまた、同じ類の潔癖さゆえだったのかもしれません。意味ありげなフレーズやイメージが飛び交うだけでなく、映画の文法が平気で崩されているので、象徴的な “父” をのり越える “父親殺し” のパターンをふまえた単純な物語なのに、一見すると難解な作品ではあります。しかしながら語り方がどれだけいびつだろうとも、アンダーソンの語りたいことをつねに一貫しています。観直してはじめてそのことに気づかされました。今では本作もほかのアンダーソン作品と同じく自分にとって大切な一本です。
★★★★☆ スカッとは全然しません。
観てて「なんじゃこれは・・?」と首をかしげながら,引きこまれました。ホアキンの演技,これはもう演技じゃないです。「これ実在の人でしょ!!」と思うほどです。頭の血管がぶちきれそうになってます。フィリップのこの味。誰にも出せません。全く惜しい人をなくしました。暗くて湿ってて救いのない映画ファンの方にはぴったりです。
★★★☆☆ 「社会」に参加できない者の物語
人は群れで生活し、どこかで集団に属さなければならない。ただし属性として向き不向きがある。主人公は向いていない。これを書いている自分も向いていない。なぜ皆は生活を続けることができるのか。他者を尊重すること、利己主義に陥らないこと、規則正しい生活を送ること。理解できるが続けられない。生活していることが苦痛。ずっと嫌な思いで過ごしている。何でもいい、ただ誤魔化してくれるものがほしい。酒浸りになる。教主の妻と娘夫婦が「彼にいてほしくない」と言う。とてもよくわかる。言われる側として。そりゃいてほしくない。群れの中に「異物」が紛れ込んでいるのだから排除しようとするのは当たり前。地元の知り合いの家へ行き「困ったぞ、早く帰ってくれないかな」という雰囲気を出される。よくわかる。来られてもうれしくないよな。平穏な生活に変なのが来ちゃあ。社会では往々にして言葉や態度が裏の意味を持つことが多い。最後に教主の妻は率直に「彼には治す気がない。治療はできない」と席を立つ。主人公は「彼女は優しくなった」という。皮肉だったのかもしれない。でも笑顔の裏に「消えてくれないかな」という本音を隠されるよりもずっといい。妻に続けて教主も言葉を並べて主人公にメッセージを伝える。語っていることは正直どうでもいい。大切なメッセージはただひとつ。「我々のもとから去ってくれ」ということ。きっと直接的に言わないことが優しさの意味を持ったりするんだろう。でもそれも裏のメッセージに気づけない人とっては残酷なことでしかない。主人公は同意する。悲しいし名残惜しいかもしれないが理解はしている。わかってる。これでいいんだ。(わかってない!いいわけがない!なんでほかのみんなと同じようにできないんだ!という人はこの映画を見ないほうがいいかもしれない。できないんだよ!)
作品の詳細
作品名:ザ・マスター |
原作名:The Master |
監督:ポール・トーマス・アンダーソン |
脚本:ポール・トーマス・アンダーソン |
公開:アメリカ 2012年9月14日、日本 2013年3月22日 |
上映時間:143分 |
制作国:アメリカ |
製作費:3500万ドル |
興行収入:2800万ドル |
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